2009年12月5日〜13日
関根哲男展
会場に入ると、その意味がすぐに分かる。床に置かれた最新作は、畳一枚ほどの大きさのトタンを十枚集合させたもので、位牌の形に切り抜かれたトタンを十枚集合させたもので、位牌の形に切り抜かれたトタン片が無数に立ち上がる。無機質な“墓場“を表現したような作品だ。
しかし、この作品は“墓場”を再現しようとしているわけでない。“位牌がテーマ”といっても、位牌に意味が与えられているわけでは必ずしもない。そうではなく、亜鉛メッキされたトタンにグラインダーで傷を付け、雨ざらしにして錆びさせ、位牌の形に切り取って立ち上げるという、ほとんど無意味な行為そのものが作品として成立している。
それは、布を円形に切り取って、それを無限に長い、“虫”のような形象になるよう無数に貼り付け、バーナーで焼いた従来からの作品と一緒である。無意味な作業を繰り返すことで、“意味”の世界に対して作品を対峙させる関根さんの基本的な姿勢は変わっていない。
先頃亡くなったクロード・レヴィ=ストロースは「世界は人類なしに始まったし、人類なしに終わるだろう」と言った。だから、人間の歴史や営為は、“無意味”の懸崖に身を投げ出しているに過ぎないのだ。そんな“無意味”に直面することは、“意味”の世界に生きている我々には極めて困難なことだ。しかし、関根さんの作品を観ることで、そうした困難はいつでもたやすく克服されるだろう。
2009年11月7日〜15日
伊藤剰展
「土の記憶」 堆積された記憶たぐり寄せ
赤褐色に焼き締められた陶板には、地元の土を用いたという。子供の頃から憧れていた縄文土器の色が、足元の大地の土で表現出切ると知ったとき、少年の記憶が蘇り、縄文の人々の営みと重なり、悠久の歴史を刻んだ大地の記憶と重なり合った。伊藤さんは太古の人々と同じ手作業によって、堆積された記憶を力強くたぐりよせる。
そして縄文の人々が、意識的に“用”の域を超えて装飾を施したように、幾何学的に、あるいは縄目を型取りして繰り返された文様が、モダンな意匠となって“今”につながる。 さらにワイヤーブラシをかけることによって生まれた織物のような質感と、微妙な焼成温度の違いによって生じた暖色の階調が、記憶を増幅させる。
それらは水上で瞬時に生滅する波ではない。遥か彼方からようやくたどり着いた波、地層に永久に留められた波を思わせる。
2009年10月17日〜11月1日
2009年9月12日〜20日
2009年8月22日〜30日
2009年7月18日
長谷川龍生講演会
日本の詩人。大阪文学学校校長。元日本現代詩人会会長(1997-2000年)。
「歴程」同人。個人の内部にある素朴な意識を即物的かつ幻想的に表すことのできる異色の詩人として、18歳でデビュー。 その幻想・妄想的な世界は時に難解ともとられるが、詩人の立場は貫徹しており、抒情のみに流されず真実を徹底して追究していく姿勢は、デビュー時より今日まで全く変わらない。
関係妄想を駆使した詩や、ドラマの中に動的なダイナミズムを感じさせる、この詩人ならではの作品を数多く書いている。その詩的世界は、常に知識をリニューアルし続ける非常にマメな姿勢にもみられる、すぐれた批評精神によって保たれている。 主な詩作方法として、自ら打ち出した「移動と転換」、「シュールドキュメンタリズム」を採用している。
2009年7月10日〜12日
2009年7月4日,5日
2009年6月20日〜28日
霜田文子展「静かに息づくものたち」
なぜ"風の卵"なのか。 霜田さんは「夢精卵のことをドイツ語で、"風の卵"という」ことを多和田葉子の小説で知ったという。ならばこれらの卵は生命を育むことのない夢精卵なのに違いない。
生命の誕生がなぜにこのようなグロテスクな相貌の下に描かれなければならないのか。そしてまた、生命の源である卵がなぜに死者の眼窩のような陥没によって孕まれていなければならないのか。
霜田さん初の個展の中で、最も原始的な生命を感じさせるこの作品は、始原の卵の生と死の無限の交替をイメージし、それを自らの表現の原点に置こうとする強い姿勢を示しているのだと考えられる。
2009年6月7日
2009年5月16日〜24日
2009年4月18日〜26日
2009年3月21日〜29日
2009年2月7日〜23日
高橋章の映像とポスター展
柏崎出身、元NHKカメラマンの高橋さんの「映像とポスター」の展覧会